歴史
スタジオジブリは、数々の長編アニメーション作品を手掛けてきました。劇場公開され、大ヒットを記録した「千と千尋の神隠し」・「ハウルの動く城」・「もののけ姫」など、他にも様々な作品が宮崎駿監督を中心として世に生み出されてきました。何十年という時を経てもなお、多くの国民に愛され続けています。
ここからは、スタジオジブリの歴史と宮崎駿監督の関係性に触れて紹介していきたいと思います。
1.スタジオジブリとは
宮崎駿・高畑勲両監督を主宰に「風の谷のナウシカ」を製作した出版社・徳間書店によって1985年に設立されたアニメーション制作スタジオである。一般的に無名といっても過言ではない宮崎駿監督の原作をアニメーション映画にするには、あまりにもリスクの大きい掛けだった。だが、徳間社長はアニメーション映画への興味ではなく、直感的に宮崎駿という人物に掛けたのである。
「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風のことであり、宮崎駿監督が飛行機マニアだったことから第2次世界大戦で使用されたイタリアの軍用偵察機の名前から「ジブリ」というスタジオ名を名付けたそうだ。この「ジブリ」には、「アニメーション界に、旋風(強い風)を巻き起こそう」という願いが込められている。
また、ジブリのように劇場用の長編アニメーション、しかもオリジナル作品以外を製作しないスタジオは、世界的にも極めて特異な存在である。
しかし、そのような作品群を生み出す彼らだからこそ、目標であるリアルでハイクオリティなアニメーション作り----人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出す----を実現していくのには、テレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能であった。それが「風の谷のナウシカ」以後のジブリ設立への原動力となったのだ。
2.スタジオジブリの設立
ジブリ第2期の当時責任者だった原徹氏が「ジブリは3Hだ」といい出したのもこの時だ。HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN。大きくお金をかけて質の高い作品を作り、大きな不安を抱えながらも、大きく儲けよう。あれから長い月日が経ったが、この言葉は未だに通用する。ジブリは常に作品を作り続けるしかない状況に自らを追い込んだのだ。そんなストレスを解消しようと、宮崎駿監督は「新スタジオを建てよう」と提案した。
しかし、新スタジオを建てるほど当時のジブリに金銭の余裕はなかった。そこで、大賛成してジブリに力を貸してくれたのが徳間社長であった。「鈴木くん(現在のスタジオジブリ代表取締役)、金は銀行にいくらでもある。人間、重いものを背負って生きてゆくもんだ。」という励ましの言葉を掛け、スタジオジブリの設立が実現されることとなった。徳間社長との出会いなしに、スタジオジブリの存在そのものと宮崎駿監督の映画作品が世に出ることはなかった。徳間康快という破天荒なスケールを持った経営者にしか、宮崎アニメーションの世界を理解し、実現することは不可能だったであろう。
3.宮崎駿監督の少年時代
宮崎駿監督は1941年(昭和16年)1月5日、男ばかりの4人兄弟の次男坊として東京都文京区に生まれた。伯父が「宮崎飛行機」を経営しており、戦時中、父親はそこで工場長を務めていた。これが、のちの作品に影響する兵器や戦記への愛着のルーツとなった。終戦後、敗戦で自信を失った当時の国内世論の影響を受けて、宮崎駿監督は日本嫌いの少年へと育ってしまう。現に、父親が戦争で得をした人間だったことも後ろめたさにつながっているようだ。
しかし、「アルプスの少女ハイジ」制作のため、スイスに行って帰国したのち、日本の景色の方が自分が好きだったと気付いたことが日本を受け入れるきっかけとなった。宮崎駿監督は日本を受け入れるまでに、愛と憎しみの間を幾度も駆け巡ったのだろう。そんな中、衝撃を与えたのが中尾佐助が書いた「栽培植物と農耕の起源」という本だった。この本との出会いで、宮崎駿監督にとっての森林のイメージは祖国と自分とを和解させてくれる重要なものとなった。
宮崎駿監督はのちの人生で、少年時代に始まる劣等感を埋めるため、社会主義や照葉樹林などの理想的なヴィジョンに没頭したかと思えば、現実の日本を肯定したりとその葛藤が作品にも反映されていく。宮崎作品が現実の苦悩や自然との共生、命の尊厳をテーマに取り上げる理由には、祖国を愛せなかった少年時代の宮崎駿という人間の生き様を重ねた個人的なアイデンティティが関係しているのだろう。
4.宮崎アニメというブランドの確立
宮崎駿監督のブランドが定着したのは、「アニメージュ」連載の「風の谷のナウシカ」からだろう。興行的にも成功し、世間を騒がせる存在となったのは「魔女の宅急便」以降であると考えられる。
少年時代、宮崎駿監督が大好きだった漫画家は手塚治虫であったが、いつしか手塚治虫の作品は暗い物語を生み出すセオリーを繰り返すだけとなり、宮崎駿監督は自ら決別をはかった。そんな中、東映動画制作のアニメーション映画「白蛇伝」に出会い、大きな影響を受ける。「白蛇伝」は、宮崎駿監督の暗く救いようのない「恨み、ツラミの劇画」を捨て、のちの作品に反映されるようなポジティブなキャラクターたちの描写を志向する一因となったのである。
また、宮崎駿監督はアニメーションの「動き」にとにかくこだわっており、「動き」を表現するためなら何をやってもいいというスタンスを持った芸術家である。これは、ロシアアニメやアメリカ・フライシャーアニメ、ディズニーなどの作品から影響を受け、アニメーションの描き方を吸収したからであろう。
しかし、それらを除くと宮崎作品には独特な世界観があることに気付く。人間が獣化し、人ではないものが喋るファンタジックな世界の中で描かれる肉体的官能を伴わない恋愛、相反する暴力描写の直視、魔法と科学文明への批判精神。現実の苦難を題材として描かれる人間描写に加え、どこか懐かしさを覚えるリアリティに富んだ美術の美しさ。世界を守るためにはヒーロー・ヒロインは曖昧模糊とした人物で描かれるなど、ストーリーにこういった要素を織り交ぜた世界観こそが宮崎作品の魅力なのである。